結婚10周年を迎えるにあたり、妻がぽつりと言った。
「ねぇ、海の上で、何もしない旅行がしてみたい。」
その言葉が妙に胸に残った。
仕事に追われる毎日。休日もどこか“予定をこなす”ように過ぎてしまい、夫婦で肩を並べてゆっくり景色を見る時間なんて久しくなかった。
だから私は、思い切って記念日に7日間のクルーズを予約した。
出航の日、港にそびえる巨大な客船を前に、妻は子どものように目を輝かせていた。
まるで新婚旅行に戻ったかのような無邪気な笑顔に、胸が熱くなった。
タラップを上がるとき、妻がそっと腕を組んできた。
その温かさに、懐かしい感情がゆっくりと戻ってくるのを感じた。
乗船するとすぐに客室へ向かい、窓を開けると広い海が一面に広がった。
静かに波が寄せては返す音だけが響き、まるで時間まで海のリズムで流れているようだった。
「こんな景色の中で過ごせるなんて、贅沢だね。」
妻がそう言って微笑んだ。
その横顔を見て、私はふいに “もっと大切にしなきゃいけないもの” を思い出した気がした。
クルーズの魅力は、選択肢がありながら、急かされないことだ。
朝は海を眺めながらゆっくりコーヒーを飲み、昼は寄港地で街を歩く。
夕方には船に戻り、バーでシャンパンを1杯。
夜はディナーで「今日は何が一番楽しかった?」と話す。
なんてことのない会話が、こんなにも幸せだと感じたのは久しぶりだった。
寄港地のひとつ、真っ白な砂浜のビーチで、妻が突然「写真撮って」と私にスマホを渡した。
楽しそうにポーズを取る姿を見て、
“ああ、こんな笑顔、最近見てなかったな…”
と気づき、胸がじんわり温かくなった。
船に戻ったあと、夕暮れのデッキで風にあたりながら妻が言った。
「ねぇ、覚えてる?新婚旅行のときも海ばっかり見てたよね。」
「ああ。君が“海って自由でいいね”って言ってたやつ。」
「そう。それで、私たちの未来の話をたくさんしたよね。」
そう言って妻は私の手を握った。
海面に映る夕陽が波で揺れて、心の奥までも揺らしていくようだった。
クルーズの数日目、私たちは船内のシアターでコメディショーを見た。
涙が出るほど笑って、隣を見ると妻も同じように笑っていた。
そのとき、ふと思ったのだ。
“ずっと一緒にいるからこそ、こういう“共に笑う時間”をもう一度持つべきなんだ” と。
旅の終盤、キャビンに戻ると、妻が小さな箱を私に差し出した。
中には、さりげなく刻印されたシルバーのバングル。
「10年ありがとう。これからもよろしくね。」
その言葉に返す返事を探していると、船の汽笛が鳴った。
静かな部屋の中に響く大きな音は、まるで節目を祝うようだった。
最終日の夜、バルコニーから海を眺めながら、私は妻に言った。
「来てよかった。もっと早くこういう旅をすればよかったな。」
妻は少し笑って、「でも、今だからよかったんだよ」と優しく言った。
潮風が髪を揺らし、遠くで波が光っていた。
10年間積み重ねた思い出が、静かに胸を満たしていった。
クルーズの旅は、私たち夫婦に“余白の時間”を取り戻してくれた。
忙しさの中で忘れていた気持ち、言えなかった言葉、
そして“共にいることの意味”を、海がそっと教えてくれた。
船を降りるとき、妻は手を握ってこう言った。
「次の10年も、また一緒に旅しようね。」
その言葉が波の音より深く、私の心に刻まれた。

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